幕間 三年前
 はやる気持ちを抑え付けるようにチケットを握り締めて、シューティーは自分の席を探す。記されているのは真ん中よりやや前方の一等席だ。無事に自分の席を見付け当てたシューティーは、腰を下ろしてしわの寄ったチケットに視線を落とす。  イッシュリーグの予選、第一回戦を示す文字が躍る。シューティーが唯一、生で観戦することができる試合だった。  どんなバトルが見られるのだろうというわくわくした気持ちは、開幕早々、畏怖と畏敬に塗り潰された。イッシュ創生伝説に残る神と呼ばれしポケモン、ゼクロム。試合の前の微かな緊張感に沸き立つ会場が、水を打ったように静まり返る。圧倒され、無力感に似た何かに襲われる。対戦相手は棄権するだろう、そんな暗黙の合意が会場を支配していた。  しかし、対戦相手はポケモンを繰り出した。あちらこちらで失笑が漏れる。ピカチュウ、小柄な体躯と愛らしい見た目からペットとして人気の電気タイプの鼠ポケモン。 ――冒涜だ ――創世の神に、抗うなんて  シューティーはトレーナーに目を向けた。白とライトブルーの服装の少年で、伝説のポケモンを前にして動揺も焦燥も見られない。ただ闘志だけをその瞳に燃やしている。  シューティーの口元は、無意識に引きつっていた。その時シューティーの胸中を襲ったのは、もしかしたら、あのトレーナーの許でなら、ピカチュウがゼクロムに勝つのではないか、そんな未来があり得るのではないかという、そんな馬鹿げた無謀な考えだった。  異様な雰囲気に包まれた観戦席も、シューティーの胸の内の不安も置き去りにして、バトルフィールドには試合開始の合図が響いた。 「どうしてピカチュウにしたんですか」  モニターを見上げていたトレーナーの背中に声を掛ける。振り返ったのは、きょとんとした表情の少年だった。観戦席から見た、張り詰めた表情のトレーナーはもっと大人びていた気がするが、彼はシューティーより少しだけ年上なだけの、シューティーと同じ子どもに見えた。  煩いほどに主張していた心臓もそれで少し落ち着いて、シューティーは気が大きくなった。 「同じ電気タイプの小柄なポケモンでゼクロムに勝つなんて、無理だって分かりきっているじゃないですか。タイプ相性がいいわけでもないし、有効な技があったわけでもないのに」  シューティーが持論を展開すると、少年は考えるようなしぐさをして「まあ確かに、そうだな」と答えた。もどかしい。シューティーは自分の意見など歯牙にも掛けられず一蹴されるのがオチだと、とても緊張しながら話しかけたのに、目の前の少年は至って真面目に受け答えをしている。  ゼクロムを見ただけで棄権するトレーナーが多く、もしバトルになったとしても相手に手も足も出ないポケモンばかりだ。その一方で、彼のピカチュウだけは違った。攻撃をかわし、ダメージを最小限に抑え、反撃の隙を逃さず、着実に技を繰り出していた。タイプ相性と、元々のポケモンの攻撃力や防御力、スピードの如何では勝利すら夢ではなかったはずだ。  しかし、彼は負けた。残ったのは、育成もバトルでの立ち回りも悪くはないけれど、伝説のポケモンに対してバトルに不向きと言われる小型のポケモンを出す物知らずな出来損ないのトレーナー、という散々な評価だけだ。  イッシュの人間にとって、それだけゼクロムという伝説に残るポケモンの存在が大きい、ということもあるだろう。神と呼ばれるポケモンを前に戦意喪失するのも無理からぬことではない、どころかイッシュ地方の人間にとってはごく普通の反応なのだ。  しかし彼にとってはどうだろう。イッシュ地方の人間ではない少年にとって、神に等しいポケモンと言われてもピンと来るものではないのかもしれない。ただ純粋に、試合の対戦相手が繰り出したポケモンに過ぎない。だから彼は、トレーナーとして相対し、ポケモンバトルを行った。それはイッシュの人間にとっては信じられないことであり、不遜だとか傲慢だとかいうレッテルが、彼に貼られていく。  誰も理解していないのだ、とあのバトルを生で見たシューティーにとって、目の前の少年が過小評価されていることに怒りすら覚える。なぜ分からないのだろう。彼がいなければ、ゼクロムに挑もうとする人間なんか一人もいなかったはずだ。彼がトレーナーでないなら、一体誰をトレーナーと呼べばいいのか。 「あなたのピカチュウは正直言って、凄かったです。他のトレーナーはゼクロム相手に何もできないし、棄権してしまう人だっているのに……ピカチュウだけはずっと持ち堪えて、相手にダメージを蓄積させていた。どうせ負けてしまうにしても、もっと他の、強くて、相性のいいポケモンだったら……」 「勝てたかもしれないし、勝てなかったかもしれないな」  少年はしゃがんで、シューティーと目の高さを合わせる。子ども扱いされているようで気に食わない。むすっとしたのが顔に出てしまったのか、少年が苦笑する。それもまた、気に食わない。 「あのバトルはとても大事なものだったんだ。だから、パートナーのピカチュウに頑張って貰ったんだよ」  通常、初心者トレーナーのパートナーは草、火、水のいずれかになる筈だ。電気タイプのピカチュウであるということは、実家が電気タイプのジムであるとか、そういった理由があるのかもしれない。 「ピカチュウが、あなたの手持ちの中で、一番強いポケモン……ということですか」 「それは難しい質問だな……ゼクロムに勝つなら、確かにピカチュウには難しかったかもしれない」 「なら、どうして……一番強いポケモンを使わないんですか。ピカチュウで負けると分かっているバトルをしたんですか」  食い下がるシューティーに、少年は苦笑した。彼は、悔しくはないのだろうか。勝利こそがトレーナーの目指すものであるはずなのに。 「君は、トレーナーかい?」 「……いいえ」  シューティーはあえてゆっくりと首を横に振る。 「三年後にポケモン使用許可が貰えます」 「じゃあ、これは先輩からのアドバイスな。ポケモンに無茶なバトルをさせるべきじゃない。でも、バトルする前から、無理だとか、どうせ負けるとか、決めつけちゃだめだ」  トレーナーズスクールの模擬バトルしか行ったことのないシューティーに本当の意味でその言葉を理解することは難しかった。  ゼクロムに勝つことが無理なことだと、最初から分かり切っている。ならば諦めてしまってもいいのではないか。明らかに負けると分かっているバトルでポケモンに怪我をさせるくらいならば……シューティーの他にも、そのように考えるトレーナーは少なくない筈だ。 「どういうことですか?」 「口で言うのは難しいな……そうだ! 君がトレーナーになったら、俺とバトルをしよう」 「あなたと?」  胸の奥がざわついた。ゼクロムと対等な勝負をする人が、シューティーにバトルを申し込んでいる。こんなことが、本当にあるだろうか。  そんな動揺を悟られないよう、シューティーは思い付く限り尊大に振舞う。 「いいですよ、僕はすぐにあなたを追い抜きますけどね」 「はは、楽しみにしてるよ」  少年が見せた笑顔に、シューティーはなぜか恥ずかしくなった。ちょうどその時「サトシ!」と少年の名を呼ぶ声がした。少年がシューティーから視線を外した瞬間、逃げるように背を向ける。  少年が「あっ」と驚いたように声を上げても「俺のピカチュウを褒めてくれてサンキューな!」と声が追いかけて来ても、シューティーは振り返らなかった。  名乗りもしなかったことを、後悔しても遅い。  その少年は、後にポケモンマスターと呼ばれることになる。
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