幕間 シンジ
 ピピピ、と鳴り響く短い電子音に、シンジは手元の雑誌から顔を上げた。  ポケモンセンターのロビーは人気もまばらだった。シンジ自身、ポケモンが回復するのを待つ暇つぶしに、置いてあった雑誌をめくっていたに過ぎない。『マスターの手持ちポケモン大分析』と銘打ったメイン記事は、最近の公式戦でのバトル傾向しか反映していないため、あまり参考にはならない。  ポケモン図鑑を開いて『ナビゲーター』を起動する。 『ポケモンリストが更新されました』  無味乾燥な音声ガイドラインが流れ、『確認しますか』と尋ねてくる。怪訝に思いながら、シンジは肯定した。ここ数日はポケモンの特訓やら兄の経営する育て屋の手伝いやらで忙しく、新しく手に入れたポケモンはいない。  空中に映し出されたリストの最終行を見たシンジは思わず我が目を疑った。『ゴウカザル』と、確かにそう書かれている。  その初期形態であるヒコザルはシンオウ地方の最初の三匹だ。従って、ゴウカザルもとりわけ希少なポケモンというわけではないが、野生で生息しているとは考えにくい。シンジが思いつく限りでゴウカザルを使用する名のあるトレーナーは二人だ。一人はシンオウ地方の四天王、もう一人は――。  シンジの思考をぶった切るように、着信音が鳴った。思わず通話ボタンを押してから、施設内であることに気付いて場所を移動する。その間にも、電話の相手先が喋り始めていた。 「もしもしシンジ!? 大変なんだ、サトシくんが」 「……兄貴か」  ナナカマド博士の研究所に、初心者用ポケモンの様子を見に行っているレイジだった。普段は名乗りもせずに話し出すなんてそんな礼儀がなってない子に育てた覚えはありませんとか言っている兄が、いやに慌てた様子だった。聞こえてきた名前は想像していた通りのものだ。きっとろくな話ではない。  テレビ電話や通信装置が並ぶスペースには他の利用者は見当たらない。これ幸いと席を陣取った。 「それで? あいつがどうとか聞こえたが……」 「うん、オーキド博士から電話があってさ。連絡つかなくなっちゃったみたい。それだけならまだいいんだけど……」  サトシは以前から一か所に落ち着かない、というか旅をしていないと気が済まないようなところがあった。一般トレーナーでなくなった今でも矯正はされず、度々関係者を困らせているという噂は聞き及んでいた。 「サトシくんのポケモンの登録者データが書き換えられてるみたいなんだよね。どうやらサトシくんの知り合いが登録されてしまってるみたいなんだけど……」  シンジは舌打ちを一つした。兄の苦笑が電話越しに震えてきて、さらに苛々が募る。 「……シンジのところにも?」 「ああ。ゴウカザルだ」 「あー……それはまた、因果だね」  シンジはふん、と鼻で笑った。因果? 嫌味か嫌がらせの間違いだろう。あのお人好しにそんな感覚があればの話だが。 「サトシくん、最後の足取りはイッシュ地方らしいよ。ピカチュウも一緒だったみたいだけど、やっぱり消息不明みたい」  心配だね、とどこか焚き付けるような声音で兄が言った。俺には関係のないことだとシンジも白々しく答えて、通話を切る。  イッシュ地方。三年前、スズラン大会でシンジに勝ったサトシが次に旅をした場所だ。ポケモンマスターの就任直後にも再訪している。どうやら厄介事に巻き込まれていたみたい、と後になってヒカリから聞いた。本人ではなく。  ナビゲーターの案内はスムーズで、イッシュ行きの飛行機を予約するのに三分と掛からなかった。
***
「……というわけで、俺はあのバカを一発殴りに行く。お前が来たいなら連れて行ってやるが」  柵にもたれて訊ねると、燃えたぎる毛並みを僅かに揺らしてゴウカザルは視線を伏せた。それは予測していた当然の反応だった。諸手を挙げて歓迎されると思えるほど、シンジは楽観的ではない。  シンジがカントー地方にいたのはただの偶然だ。カントー地方のナナシマという離島の育て屋まで届け物をしていたのである。イッシュ行きの便はもちろんカントー地方の空港から出発する飛行機を予約した。出発は三日後で、オーキド研究所に寄っても充分な時間の余裕があったのだった。  普段は多くのポケモンたちが伸び伸びと過ごす広大な敷地も、やや閑散とした印象だ。大部分を占めるサトシのポケモンたちが少ないせいだろう。トレーナーが唐突に姿を消し、さらにボールの登録者が別の人間に変わったのだ。ポケモンたちが動揺するのも無理からぬことだった。サトシは特にポケモンからの信頼が厚いトレーナーだ。それ故に、例えば裏切られたと感じるようなポケモンがいないとも限らない……そこまで考えて、シンジは自らの思考を一笑に付した。 「ダネフッシ」  シンジとゴウカザルの傍には、いつの間にか一体のポケモンがいた。カントー地方の初心者用ポケモン、草タイプのフシギダネだ。小柄ながら貫録があって、最終進化形のポケモンであるゴウカザルと並んでも見劣りはしない。 ――みんなからも一目置かれているんだよね、フシギダネは  電話越しに肩を竦めてサトシが話していたのを思い出す。 ――面倒見がいいし、兄貴分って感じなのかな。フシギダネの言うことはみんなちゃーんと聞くんだ  確かあれは、サトシのポケモンマスター就任間もなくのことだった。多忙を極めていたサトシは久方ぶりに帰郷して、ポケモンたちからせがまれるままに遊んでいたらしい。サトシがぶっ倒れる一歩手前で、見兼ねてフシギダネが他のポケモンをいなしたというのだ。  やって来たフシギダネは、シンジにはちらりと一瞥を寄越しただけだった。どうやら用があるのはゴウカザルらしい。トレーナーがいなくなったというのに大して落ち込んだ様子もないフシギダネが、ゴウカザルに話しかける。一体何の話をしているのか、シンジには分からない。  フシギダネと話していたゴウカザルは、俯けていた視線を徐々に上げていく。そしてシンジを見据えた双眸が、勢いを増す炎のように輝いた。それは答えに他ならない。  研究所内でゴウカザルのボールを受け取るとき、ケンジは苦笑混じりに呟いた。 「本当は、フシギダネも自分が行きたいんだろうけど」  そのフシギダネを受け取ったというケンジは、しかしオーキド邸に留まることを決めたという。フシギダネも了承済みらしい。 「そういえば、今ちょうどシゲルがイッシュにいるんだよね。学会の都合で」  もし会うことがあったら、渡してくれないかな。そう言って渡らされたもう一つのモンスターボールの中のポケモンは、シンジの言うことを聞く気はなさそうだった。  元々は自分が切り捨てたポケモンが、悔しいほどに強くなって、そして今なぜか戻ってきた。  歓びは、全くもって湧いてこない。
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